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◎特別よみもの「ルポ・冷麺の来た道」

ルポ 冷麺の来た道

〜朝鮮半島から盛岡へ、在日コリアンたちの軌跡(上)

(著者:滝沢真喜子 雑誌「望星」2003年6月号掲載)



盛岡の名物料理

 岩手県の県庁所在地、盛岡市。昨年12月、東北新幹線が青森県

の八戸市へ延びるまで、東北新幹線の起点であり終着でもあった街だ。

 この盛岡の名物に冷麺がある。冷麺とは朝鮮料理である。それが

、いつしか東北の地方都市の名物となり、「盛岡冷麺」などと呼ば

れて全国的に知られ始めてきた。確かに市内に「焼肉・冷麺」の店

は多い。電話帳で調べてみると、冷麺を出す店だけでもざっと30

軒はある。この他、食堂や居酒屋、そば屋などでも冷麺を出してい

ることを考えれば相当な数だ。在日コリアンが多いのかと思い、調

べてみると、盛岡の人口、29万人に対し、朝鮮・韓国籍の外国人登

録者数は442人(平成12年度現在)ほどだった。

 私は盛岡育ちだが、初めて冷麺を食べたのは東北新幹線の盛岡−

大宮間が開通した昭和57(1982)年。辛い料理が流行し「激

辛ブーム」などと騒がれていた。冷麺は加えるキムチの量によって

「中辛」、「特辛」、「激辛」など辛さが選べる。高校生だった私

は、友人と辛さ自慢をするためにキムチの量を競って食べた記憶がある。

 盛岡の冷麺は、いわゆる本場、朝鮮半島の平壌冷麺とはまったく

違う。黄味を帯び、透き通った麺が特徴だ。麺の直径は1.5ミリ

前後。スパゲティほどの太さである。噛み切れないほどコシが強く

、ツルリとしたのど越しが爽やかだ。牛骨ベースのコクのある冷た

いスープに、大根とキャベツのキムチを入れて食べる。一方平壌冷

麺は、そうめんほどの細さ。ソバ粉で作るので麺は黒っぽい。キム

チも添えられているが辛さはかなり控えめだ。これだけ違っている

のだが、盛岡の冷麺もやはり平壌冷麺と呼ばれている。

 私が盛岡冷麺の特殊性に気付いたのは、東京で暮らすようになり

、本来の平壌冷麺の味を知ってからだった。その後、Uターンしてみ

ると、私が盛岡を離れていた10年の間に冷麺は「盛岡冷麺」と呼

ばれ、名物の花形になっていた。なぜ、盛岡に冷麺が生まれ、盛岡

冷麺と呼ばれるまでになったのか。私は盛岡冷麺の歴史をたどって

みることにした。

冷麺のおいたち

 盛岡独特の冷麺を作り上げたのは、焼肉屋「食道園」を開いた青

木輝人だ。残念ながら平成12(2000)年、86歳で他界して

いる。現在、輝人の後を継ぎ店を、切り盛りしている次男の雅彦に

会いに食道園へと向かった。

 食道園は盛岡の中心地を東西に走る大通り商店街の裏手にある。

折しも盛岡を舞台にした映画『壬生義士伝』が公開されたこともあ

り、街のそちこちに「壬生義士伝の町、盛岡」と書かれた幟(のぼ

り)がはためいていた。

 大通りの中ほどから小道に入る。スナックや居酒屋の看板が並ぶ

細い道を歩いていく。城下町の名残だろうか、一方通行の細い道が

、ねじれて交差する五叉路。食道園はその角地に面した三階建ての

タイル貼りのビルだ。看板には「高級朝鮮料理食道園」の文字。入

り口の自動ドアには「平壌冷麺」と染め抜かれたのれんが下がって

いた。グレーのコットンパンツにボタンダウンシャツ、エプロンを

着けた青木雅彦が迎えてくれた。

 雅彦の父、青木輝人は大正3(1914)年、朝鮮半島北部の港

町、咸興(ハムン)に生まれた。日韓併合により日本が朝鮮(当時

の大韓帝国)を植民地化した4年後のことだ。 反日感情が渦巻く

中でも、大都会東京や日本の文化は輝人にとって憧れの的だった。

家出同然に汽車に飛び乗り、釜山から船で下関に渡った。23歳の

時である。東京へたどり着いた輝人は山形県出身の女性と出会い結

婚。太平洋戦争が始まり盛岡へ疎開した。盛岡を選んだのは、知人

が一人いる、それだけの理由だったという。

 そして終戦。輝人が食道園を開いたのは昭和29(1954)年の

ことだ。店の名前は、かつて働いていた東京・数寄屋橋の朝鮮料理の

店から拝借した。しかし輝人はその店で料理を修業したわけではな

く、フロア・マネージャーとして一年ほど働いていただけだった。

輝人は東京時代に屋台のラーメン屋をしていたことがあるきりで、

ほとんど素人同然で食道園を開いた。

 開店当時、食道園ではソバ粉入りの平壌冷麺を出していた。この

冷麺がとにかく評判が悪かった。日本人になじみのない弾力のある

食感に驚いた客は、ゴムを食べさせる気か、と怒鳴ったとか、箸を

投げつけたとか、怒って金を払わずに帰ったなど、いくつものエピ

ソードが伝わっている。その話を聞きながら、私が初めて盛岡以外

の平壌冷麺を食べた時のことを思い出した。食べ慣れない冷麺を口

にして、やはり私も、これは何だ、と首をかしげたことがあったの

だ。

 いまでこそ日本中で手軽に世界の料理を食べることができる。食

にまつわる情報も嫌というほど溢れている。しかし食道園が開店し

た当時、外食の習慣はまだまだ薄かった。初めて冷麺を食べる人が

受けた驚きはいま以上に大きかったはずだ。輝人は何度も試行錯誤

を繰り返し、昭和29年の終わりにはソバ粉を入れないいまの麺を

完成させていた。しかし麺が変わったとはいえ、保守的な盛岡の人

の味覚に冷麺が受け入れられていくには、さらに数年の歳月が必要

だった。

ひっかかる味

 息子の雅彦は昭和31(1956)年生まれ。47歳だ。一向に

客が来ない店の厨房で宿題をしながら育った。冷麺が名物となった

いまではシーズンになると、店の前に観光客の行列ができる。

 「子どものころは、ほんと貧乏だったんですよ。小学校で使うハ

ーモニカも買えなかった。」と雅彦は笑いながら当時を振り返る。

 あまりに客が入らないので、輝人は店を閉め山形県の妻の実家へ

越すことを何度も考えたという。そんな輝人を引きとめたのは友人

だった。輝人の周りには医者や芸術家など、知識欲が旺盛なモダニ

ストたちが集まっていた。そんな友人たちが、盛岡にいなさいよ、

がんばれよ、と励まし続けた。

 「親父は愛嬌のある人間でね、人付き合いもよかった。文化的な

ことが大好きで、自分もインテリを気取っているところがありまし

た。客の入らない店を支えていたのは親父の人間性でした。面白い

親父がいて、おかしな麺を食べさせる、そう言って友人たちが応援

してくれていたんです。」

 青木輝人の友人の一人に、村上善男がいる。村上は岡本太郎から

弟子として薫陶を受けた現代美術家であり、弘前大学の名誉教授で

もある。昭和8(1933)年、盛岡に生まれ、地元で国語の教師

をしながら作品を制作していた。昭和30年代の初め、輝人と出会った。

 「青木輝人の冷麺。あれは完璧でした。食道園の冷麺は、真っ白

な器に入って出てくるでしょう。あの器じゃなくちゃいけない。で

ないと透き通ったスープの色が見えないんですよ。透明な麺の上に

ゆで卵と白ゴマがのってね。美しかった」

 当時、食道園のそばに「モンタン」というシャンソン喫茶があっ

た。モンタンとは、フランスの歌手、イブ・モンタンにちなんだ店

名だ。この店は村上をはじめ、詩人や絵描きなど若いアーチストの

溜まり場だった。仕事が終わると店に集まり、時間を忘れて議論を

する。夜更けに食べに行ったのが食道園の冷麺だった。

 「冷麺を初めて食べたときは驚きました。噛んでも噛んでも噛み

切れない、生ゴムみたいな麺でしょう。キムチが入っていて、やみ

くもに辛い。ところがこれが不思議な食べ物でね。二回、三回と食

べるうちに癖になる。麺の歯ごたえと辛さが忘れられなくなる。あ

の清涼感がずっと頭のどこかにひっかかっていて、ふと、思い出す

と、また食べたくなる」 盛岡の冷麺の魅力は、村上のこのことば

に尽きる。麺の歯応え。キムチの辛さ。透き通ってコクのあるスー

プ。この三つの要素が作り出す、忘れられない不思議な味が盛岡の

人を虜にしていった。開店して5年目ごろから少しずつお客が増え

始め、十年をすぎることには、連日、満員になるほどの人気店とな

っていた。

在日コリアンとして

 雅彦は父、輝人の一生を「泳ぎたいように泳いだ人生だった」と

評する。

 輝人は昭和35(1960)年、日本に帰化している。

 「親父は、店を開いた時点ですでに日本に骨を埋める気持ちでい

たようです。祖国を捨てる、ということではなく、家族に辛い思い

をさせたくないという思いからでした」と雅彦は振り返る。

 輝人は、祖国に帰りたいというそぶりは一度たりとも見せたこと

はなかった。しかし晩年になると韓国への旅を頻繁に繰り返してい

た。月に二度行くこともあったという。望郷の念だったのかもしれ

ない。

 「家族に対して強がっていたのかもしれません。お袋は、親父が

祖国に帰りたいといって泣いている姿を見たことがあると話してい

ましたから」

 店を開く前、輝人は朝連(在日本朝鮮人連盟)の設立にかかわっ

たり、岩手県釜石市の組織で議長をしたこともあったらしい。釜石

市は藩政時代から製鉄が行われてきた街で、社会人ラグビーでも名

を馳せた新日本製鉄の城下町だった。戦前は、強制的に連行されて

きた朝鮮人をはじめ多くの労働者が働いていた。

 しかし、運動にかかわっていた過去について一切、話そうとしな

かった。

 「ぼくらの生活を守るために、あえて過去を封印したのでしょう

」と雅彦は推測する。輝人が日本へ帰化した前年の昭和34(19

59)年、在日コリアンを乗せた第一回帰国船が北朝鮮へと出航し

ている。このとき、盛岡からも相当数の在日コリアンが帰国してい

った。帰国運動が盛り上がっていく中でも、輝人は一貫して在日コ

リアンたちとは付かず離れず、適度な距離を保って付き合っていた

という。

 「もし関西のようにしっかりとした在日コミュニティーが確立し

た街だったら、親父のような人間は弾き出されていたでしょう。そ

れに平壌冷麺を日本人の味覚に合わせてアレンジする必要もなかっ

たんじゃないでしょうか」と雅彦は言う。確かに輝人が故郷を再現

して作った冷麺が盛岡ですんなり受け入れられていたならば、盛岡

独特の冷麺が生まれることもなかったわけである。

 昭和40年代になると、輝人の成功を見て、次々と焼肉・冷麺の店

ができていった。中には店名だけでなくロゴまでそっくりまねる店

もあったが、輝人は「どんどん、はやればいいじゃないか」と一向

に意に介さなかった。その結果、輝人が作り出した冷麺が盛岡の町

に広がっていったのだ。成功した輝人の後を追い、いまに至る冷麺

ブームの礎を作ってきた在日コリアンを訪ねてみた。

祖国へのこだわり

 「そりゃもう食道園は憧れだったよ」と話すのは在日コリアン二

世で、昭和35(1960)年、焼肉屋「モランボン」を開いた岩

田照夫(64歳)だ。料理を通して自分たちの国や文化を知ってほ

しい、それが願いだった。

 「朝鮮人ってだけで馬鹿にされてた。僕らがいくら話しかけても

日本人は胸襟を開こうとしない。そんな時代に食道園では朝鮮料理

って看板を出して受け入れられている。うらやましかったよ」

 岩田が冷麺の作り方を母親に尋ねると、そんな料理は知らない、

と言われた。朝鮮半島出身であればだれもが冷麺を知っていると思

いがちだ。ところが冷麺は朝鮮半島北部の郷土料理なのだ。岩田の

母親は南部の町、大邱(テグ)出身だ。南部出身者の彼女が知らな

いのも当然だった。岩田は食道園に通い、舌だけを頼りに味を覚え

た。

 昭和40(1965)年に開店した「大同苑」の吉川敏雄(55

歳)も「僕ら在日韓国人がすぐに始められる商売は焼肉屋しかなか

った。その当時、冷麺専門店として店を構えていた食道園の存在は

大きかった」と話す。

 朝鮮料理である平壌冷麺が盛岡で受け入れられ、街に根付いた。

その姿は、祖国にこだわりながらも、盛岡という土地に溶け込んで

生き抜いてきた、岩田や吉川ら在日コリアンの人生に重なって見え

た。

 そこで私は二人に、冷麺が「盛岡冷麺」と呼ばれ、ブームになっ

ていることをどう思うかとたずねてみた。もちろん、二人とも食道

園が作り上げた冷麺が、本来の平壌冷麺とは違うことは承知してい

る。それでも二人は自分たちが作る冷麺を「盛岡冷麺」ではなく、

「平壌冷麺」と呼んでほしい、と語る。この二人に限らず、在日コ

リアンの中で「盛岡冷麺」という呼び方に抵抗を感じている人は少

なくない。

 では一体、「盛岡冷麺」と呼び始めたのはだれなのか。そんな中

で出会ったのが焼肉レストラン「ぴょんぴょん舎」を経営する邊(

ピョン)龍雄(54歳)だった。邊こそが盛岡で初めて「盛岡冷麺

」とうい名前を使った在日コリアンなのである。

 邊が初めて盛岡の平壌冷麺を「盛岡冷麺」と称したとき、在日コ

リアン一世から「祖国の味を安売りする気か」と怒号を浴びせられ

た。朝鮮半島が日本に植民地化された歴史を体験してきた世代であ

る。「平壌」という祖国の地名を捨て「盛岡」と名乗ることに対す

る怒りだった。

 邊自身、「盛岡冷麺」と呼ぶことに迷いはあった。その邊を決意

させたのは、「国」と「国」ではなく、「人」と「人」として向き

合えば異文化も必ずわかり合える、という熱い思いだった。

 20代のころ、邊は在日コリアン二世として学生運動に参加し、

祖国とは何か、在日とは何かという葛藤を抱えながら生きてきた。

その経験を通じて邊は「ものの見方を学んだ」という。その経験が

あったからこそ、邊は「盛岡冷麺」でいい、という結論にたどりつ

いたというのだ。

 次号では、この邊の半生を中心に、もうひとつの冷麺物語をたど

ってみたいと思う。

(つづく)


ルポ 冷麺の来た道

〜朝鮮半島から盛岡へ、在日コリアンたちの軌跡(下)

(著者:滝沢真喜子 雑誌「望星」2003年7月号掲載)

ソウルへ行く

 4月17日、私はソウルにいた。仙台空港を出発した直行便は1

6時10分、仁川(インチョン)空港に到着。2年前に完成した仁

川空港は東アジアのハブ(乗継)空港として躍進する巨大な空港だ

。モダンなターミナルビルから専用バスに乗りソウル市内へ向かう

。外を見ると桜が満開である。今朝、自宅を発ったとき、盛岡の桜

はまだつぼみだった。ソウルに歓迎されているように感じた。

 ソウルを訪れたのは昨年に続いて2度目である。前回は盛岡冷麺

の原型を探してソウル市内の平壌冷麺を食べ歩いた。そして今回は

、岩手県盛岡市にある焼肉レストラン「ぴょんぴょん舎」オーナー

、邊龍雄(ピョン・ヨンウン)が企画した「食にこだわる韓国の旅

」に参加しての渡韓である。邊は「盛岡冷麺」という名前を初めて

用いた在日コリアンであるばかりでなく、盛岡冷麺のルーツを探求

している人物でもある。その邊とともに韓国の食文化を体験すれば

、冷麺のルーツはもちろん、冷麺を生み出した文化の一端をより深

く知ることができると考えたのだ。

 出発の当日、邊はカラシ色のジャケットを着て登場した。背が高

く日に焼けた邊の顔には明るい色のジャケットがよく似合っていた

。渋い色のビジネススーツを着て店を取り仕切っているいつもの姿

よりも若々しい。

 三泊四日のスケジュールの中で冷麺が食べられるのはわずか一回

のみ。私は物足りなさを感じていた。二日目の午後、朝から降り始

めた雨足が弱まらず、予定していた観光がキャンセルとなった。そ

の時間を利用して、急遽、平壌冷麺の店に行くことになった。

 邊が案内してくれたのは冬沈漬(トンチミ)を使った伝統的な冷

麺で知られる店だった。平壌冷麺は、キジや牛肉でスープを作り、

そこに冬沈漬の汁を加えて味わう。冬沈漬とは、大根を塩漬けした

もの。酸味のある汁を冷麺に入れて清涼感を添えるのだ。ところが

ソウルでも味覚が現代風に変わりつつあり、伝統的だがあっさりと

した味の冬沈漬ベースの冷麺よりも、コクのある動物性スープが主

流になりつつあるという。韓国式のステンレスの器に入った平壌冷

麺を味わってみる。盛岡の冷麺に比べると、かなりこってりした味

わいだ。酸味も少ない。邊が「あれ、味が落ちたな。冬沈漬が少な

すぎる。清涼感が感じられないよ」と怒ったようにつぶやいた。邊

や私を含め、盛岡冷麺を食べなれている盛岡市民にとって、冷麺と

いえば無意識のうちに盛岡冷麺の味を求めるようになっているのか

もしれない。それほどまでに盛岡冷麺は身近な味になっているのだ



在日コリアンとして生きる

 邊龍雄。昭和23(1948)年、兵庫県神戸市生まれの在日コ

リアン二世だ。邊の父、到三は大正3(1914)年 、朝鮮半島の

南海に浮かぶ済州島に生まれた。到三は先に大阪に渡っていた祖父

を追い、弱冠12歳で済州島を後にする。到三は邊に「済州島には

お前の好きな動物がいっぱいいて、きれいな花が咲いている素敵な

ところなんだよ」と語ってくれたという。

 邊が生まれた昭和23年、到三はすでに神戸市の長田区でゴム長

靴工場を経営していた。終戦後、到三はゴム長靴を売るために岩手

県にやってきた。農家が多い東北では、ゴム長靴がよく売れた。し

かし事業に失敗。その結果、家族は岩手県の福岡(現在の二戸市)

へと移住。昭和28(1953)年、邊が5歳のころ、盛岡市の中

川町で暮らし始めた。

 中川町は盛岡駅の南側に位置する。市西部を流れる雫石(しずく

いし)川沿いにあり、土手を越えると河川敷が広がる。現在は河岸

も整備されたが、邊が子どものころは雨が降ると地面から水が湧き

上がり、すぐにぬかるんだ。場合によっては床の上まで水が上がる

こともあった。街はずれで足場の悪いこの中川町に終戦後、多くの

在日コリアンが住み着いた。

 邊一家は「中原」と名乗って暮らしていた。中原龍雄として小学

校に通っていたころ、邊は中川町に住んでいることをできれば口に

したくなかった。在日であることが知れると、ニンニク臭い朝鮮人

め、などと罵られるからだ。いじめられて泣いている邊をなぐさめ

てくれたのは、到三が話してくれる楽園のような済州島の話だった


 しかし、邊はやがて中原の姓を捨てることになる。邊が二十歳の

ころに直面した、ある出来事がきっかけだった。友人と次の選挙で

誰に投票するかという話題になった。だが、在日コリアンの邊には

選挙権がない。「俺、選挙権、ないんだよ」という邊の一言で友人

たちとの関係が気まずくなってしまったのだ。

 中原龍雄と名乗っている限り、周囲は彼を日本人だと考える。ふ

としたはずみに在日であることを知ると、友人たちが動揺する。邊

は友人たちを戸惑わせてしまうことに罪悪感を感じた。以来、本名

を名乗り、在日コリアンとして堂々と生きたいと考えるようになっ

た。だが、そのきっかけはなかなか訪れなかった。

 邊は、高校卒業後、父親の鉄クズ業を手伝う。鉄クズを積む、降

ろす、切る。毎日同じ作業の繰り返しだった。自分は一生をかけて

この仕事に取り組むのだろうか・・・邊は悩んだ。そして経営者に

なりたい、そのために会計の勉強をしたい、と思うようになる。2

3歳の春、税理士を目指し上京。高田馬場にある富士短期大学へ入

学した。入学と同時に邊は中原という姓を捨て、邊龍雄としての人

生を選択する。昭和46(1971)年のことだ。

 在日コリアンとして生きる道を選んだ邊に、もう一つの転機がや

ってきた。この年の夏、韓国政府は祖国の歴史や文化を学んでもら

おうと、在日コリアンの学生たちを一ヵ月にわたりソウルに招いた

のだ。在日コリアンの学生800人がこの夏季学校に参加。参加者

のなかには邊の姿もあった。邊は初めて祖国の土を踏んだ。

 帰国後、夏季学校で知り合った仲間から学生運動の集会に誘われ

た。出かけてみると目をギラギラ光らせて動き回る連中がいた。東

京都内の大学生からなる在日韓国学生同盟のメンバーだった。自分

よりも年下の現役の大学生たちが真剣に意見を戦わせている。選挙

権を持たない自分も学生運動を通して政治にかかわることができる

のだと初めて邊は知った。

 こうして学生運動に飛び込んだ邊は、趣味として取り組んでいた

写真の腕を生かし、報道班として活動に参加。大阪、京都、名古屋

、各地の集会で記録写真を撮影した。2年間の短大生活はまたたく

間に過ぎていった。卒業後もそのまま東京に留まり、夜間の専門学

校に通いながら昼は学生運動を続けた。日本の法律を学んで税理士

になることに意味があるのだろうか。もしも税理士として日本で働

くのなら、思い切って帰化したほうがいいのではないか。一時は、

真剣に帰化することも考えた。在日として生きるのか、帰化するの

か。不安な気持ちを抱えていた27歳のとき、盛岡の在日本大韓民

国居留民団系の金融機関から声がかかった。盛岡に帰ってきて就職

しないか、というのだ。この誘いにのった邊は東京での生活に見切

りをつけ盛岡に戻る。邊は結局、帰化はせず在日コリアンとしてそ

の金融機関に3年半勤務した。当時を振り返って邊はこう語る。

 「社会の中で重要なことが良くわかった。在日、日本人というこ

とは一切関係ないんだよね。いかに真剣に仕事を重ねていくかなん

だ。いい仕事をする。そうすれば必ず評価されるんだ。」

盛岡冷麺との出会い

 昭和57(1982)年、病に倒れた到三に代わり、邊は家業の

鉄クズ業を引き継いだ。高度経済成長の時代は過ぎ去り、鉄クズ業

を続けていても借金だけが増えていく。このままでは食べていけな

い。事業転換を考えた。在日二世である邊は焼肉屋で勝負すること

を決意した。しかし飲食店を経営するには調理の知識が必要だ。邊

は38歳にして調理学校に入学。ゼロからの出発だった。

 調理学校に通いながら「ぴょんぴょん舎」開業の準備をしてた昭

和61(1986)年、盛岡市の観光課などが主催するイベント、

「ニッポンめんサミット」から出店の打診があった。盛岡市には「

わんこそば」で知られる麺食文化がある。5年前の昭和57(19

82)年には東北新幹線が盛岡まで開通している。全国各地の麺を

取り上げるこのイベントを通して、盛岡を麺の町としてPRしよう

という試みだった。折しも日本中に「激辛」ブームが巻き起こり、

辛いキムチを入れて食べる冷麺の知名度も高まり始めていた。そん

な時代背景をうけて、盛岡の冷麺もイベントに取り上げられたのだ

。邊は開業を前に格好の腕試しのチャンスだと考え、出店を決めた


 当日、会場となった市内のデパートに行くと、そこには「盛岡冷

麺」と書かれた大きな看板が掲げられていた。事前に相談はなかっ

たが。邊は「まずい」と感じた。予感は当たった。偶然、道で出会

った在日コリアン一世から「平壌冷麺を盛岡冷麺と呼ぶなんて祖国

を売る気なのか」と難詰された。彼らは朝鮮半島が植民地化された

歴史を体験してきた世代だ。だからこそ「平壌」という祖国の地名

を捨て「盛岡」と名乗ることに対して怒りを感じていたのだ。

 「盛岡冷麺」と呼んでもいいのか。「ぴょんぴょん舎」の開店を

前に邊は迷った。20代のころ、共に学生運動をしてきた在日二世

の仲間に相談した。「焼肉だってモンゴルの食文化が韓国に伝わっ

て根づいた。そして日本へ広がったんだ。文化とは、それぞれの土

地で育っていくものだ。盛岡で育った冷麺は盛岡冷麺でいいじゃな

いか」

 友人の言葉に勇気づけられた邊は、「ぴょんぴょん舎」の開店準

備に追われるなか、「盛岡冷麺」のルーツを調べ始めた。「盛岡冷

麺」と呼ぶからには、自分なりの答えを探し出したかった。

 朝鮮半島の平壌冷麺はソバ粉入りの細麺だが、盛岡冷麺は半透明

の太麺で、ソバ粉は使わない。小麦粉とジャガイモの澱粉と重曹で

作る。キムチを入れる食べ方も独特だ。韓国に行っても本を読んで

も謎は解けない。しかも盛岡冷麺の創始者、青木輝人は元祖「平壌

冷麺」の暖簾を掲げている・・・。邊は青木の元を訪ね、盛岡冷麺

誕生の経緯を確かめた。

 朝鮮半島北部出身の青木が盛岡に辿りつき、故郷の味をベースに

「盛岡冷麺」を作り上げた。いまでは名物として定着しているが、

初めて盛岡に登場したとき、冷麺はまちがいなく異文化だった。盛

岡の冷麺が歩んできた道を伝えていくことは、自分たち在日二世の

使命でもあると考えたのだ。

 学生運動に熱中していたあのころ、邊は日本に暮らしながら「在

日」という限られた社会のなかで生きているように感じていた。

 在日社会、という組織の立場で考えていくと、どうしても「国」

対「国」という構図が前面に出てきてしまう。しかし政治的な視点

ではなく、個人として向き合えればどうだろうか。国籍や人種にか

かわらず、素直にお互いを尊重できるはずだ。

 そう考えれば「おいしい」という気持ちひとつで理解しあえる食

文化の果たす役割は大きいではないか。邊は結論を得た。

 昭和62(1987)年、在日コリアンとして初めて「盛岡冷麺

」の名前を掲げ、「ぴょんぴょん舎」がオープンした。16年を経

たいま、冷麺は盛岡の名物として全国に知られるようになり、観光

シーズンには邊の店だけでなく、市内の冷麺店の前に客の行列がで

きる。


 邊は「盛岡冷麺」を通じ、地域とのつながりをさらに深く考える

ようになったという。冷麺が名物となり、盛岡を盛り上げることに

なれば、盛岡市民は冷麺を誇りに思うはずだ。こうして少しずつ交

流を積み重ねていくことが、いずれは祖国と日本の相互理解へつな

がる。邊はいま、こう考えている。「盛岡冷麺」を祖国と盛岡の文

化を結ぶ架け橋にしたい、と。
 
 ツアーの最終日。最後にもう一度、どうしても平壌冷麺が食べた

かった。昭和21(1946)年にソウルに開店した「又来屋」に

向かった。開店当初から勤め続け、今年70歳を迎えるという平壌

生まれの支配人、金枝億(キム・ジオク)に話を聞いた。

 「うちの店には、朝鮮動乱で故郷に帰れなくなった人が平壌と同

じ味だ、懐かしい、と言って食べに来る。だから味は開店当時のま

まだ。変えるとその人たちが怒るんだ。でも、いま、平壌の人が食

べている冷麺がどんな味なのか、私にはわからない。朝鮮動乱で祖

国が南北に分断されてからもう50年になる。私は平壌に帰ること

ができないんだからね」 この言葉を聞き、私は「平壌冷麺」とは

、もしかすると盛岡の在日コリアンにとっても、ソウルで暮らすコ

リアンにとっても、一人ひとりの胸のなかにある、祖国へとつなが

る「幻の味」なのではないかと思った。

 朝鮮半島を南下して海を渡り、冷麺は盛岡まで辿りついた。半世

紀かけて盛岡に根づいた。この冷麺が歩んできた道は、全国に暮ら

す多くの在日コリアンたちが辿ってきた”道”でもあるのだ。 

(完)

著者の滝沢真喜子(たきざわまきこ)さんについて

ジャーナリスト。1966年岩手県盛岡市生まれ。岩手大学卒。

98年まで東京で雑誌の編集にかかわる。Uターン後は東北の生活文化

をテーマに取材活動をしている。

本記事は、著者および雑誌「望星」編集部から許可を得て掲載させ

ていただきました。心からお礼申し上げます。

著作権はあくまで著者にあります。


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